真実を見つめるのは、時に、身を切られるようにつらい

ある日、ボルダリングジムに

母親と姉といっしょに、未就学の女児がやってきた。

 

女児は、バレエをやっているらしく

身体が柔らかく、活発で、物おじしない子だった。

 

ボルダリングのルールを教わり、一番簡単な課題から順に取り組みはじめた。

 

ゴールする度に「おかあさーん、みてみて」

「おかあさんやおねえちゃんにもできる?」とアピールする。

 

ジムのスタッフにも「わたし、何番までのぼったよー」とアピールする。

 

小さな身体から、わたしすごいでしょ、というオーラを撒き散らしていた。

 

確かに、その日初めて壁を登るにしては、

身体の小ささというハンデがあるにしては、彼女はとても登れる子だった。

 

私は、その子にイライラした。

甘えんなと思った。

自分を見て!ってアピるなよと思って気分が悪くなった。

その子と目を合わせたくなかった。

こちらを向いても無視をした。

 

誰も悪くない。

女児は、誰かに迷惑をかけるようなことはしていないし、

その親もちゃんと女児を見ていて、周りに気を使っていた。

ジムのスタッフも彼女を優遇したわけではなかった。

 

 

自分の闇が一層深く見えた日だった。

 

出来ない子や、引っ込み思案な子には

やさしく見守ったり励ましたりすることができそうだけど

できる自分を見て!っていう子は受け止められないと思った。

 

私は、恐らく、自分が、そう言いたい(言いたかった)のだ。

「おかあさん、私をみて」「私を褒めて」

 

この調子だと自分の子供ですら、

認めてやることができないだろうと思うと恐ろしかった。

 

ゴールに早くたどりつくには誰にヒントをもらうかも重要

ゴールに早くたどりつくには誰にヒントをもらうかも重要。
自分の力には限界がある以上、誰かの力を借りながら進んでいく必要がある。

誰にヒントをもらうか、というのは、言いかえれば「センス」ということになるだろう。

 

ひとつには「鼻がきく」こと。
これはやばい、このままだとあぶない、これはおかしいっていう
見えざるものに対する感覚のようなものがないと、最悪死ぬ。

 

もうひとつには、「目利き」であること。

この人が自分の力になってくれそう、これには価値があるという判断力。

(ここでいう価値というのは相対的なものなので、人に共感する力ともいえる)

 


「センス」である以上、この力は磨くことができるはずだ。


二度と同じ轍を踏まない、とか

いい結果を出したい、とか

最短で、とかっていう強い意志と、

失敗でも成功でも経験を糧にする姿勢、

そもそもトライアルアンドエラーの回数。

これが備われば「センス」は洗練されていくかもしれない。

 

だから、新人さんが遠回りしちゃうっていうのはある意味当然のこと。

一部の天才と、運がよかった場合以外は、回数で経験値上げていくしかない。

(てっとりばやく回数を補うには、勉強するしかない)

 

問題は、ベテランさんが遠回りしちゃうとき。

 

ヒントをもらう人を間違えちゃって遠回りっていうのは、

0.そもそも何が起こってるのか正確に把握できていない(主な原因は思考停止)パターン。

→適切な問いかけができない→適切なヒントがもらえない→遠回り

 

1.会社名とか肩書きとか売り文句だけに目が行ってしまい、 見かけにだまされちゃう(主な原因は思考停止)パターン。

大きいからいい、偉いからいい、売れてるからいい、とかね。

 

2.コミュニケーション能力(周囲に与える影響を想像したり、自分の言いたいことを伝える力)が足りないパターン。

 

教習所で習った、 クルマを運転するときの「認知」、 「判断」、「操作」。

事故を防ぐのに一番効果的なのは「認知」を改善することなんですよね。

0も1も、認知にかかわることなので、次回は認知について考えてみようと思う。

 

「許してくれそう」と「許せない」(見かけと実情のお話)

私は、どうも「許してくれそう」な人に見えるらしい。

 

これまで、そこそこ告白されてきたけど

それは容姿とか中身以上に「OKしそう」だからなんじゃないかと最近思う。

不幸にもいくつか犯罪にも遭遇してきた。

それは私が「反論しなそう、力がなさそう、弱そう」に見えるからなんだろう。

 

私自身の評価とすれば、私は「許してくれそう」どころか、全く「許せない」人だ。

そもそも私は「許す」ということがよくわかっていない。

それはもう育ちが原因で「許されて」こなかったから、

周りに対してどこでどう「許せ」ばいいのかわからないからなのだ。

 

だからこれまで、私は徹底的に「許さ」なかった。

相手を責め、コテンパンにし、泣こうが謝られようが、厳しく追及し、

憎まれようが「許さ」なかった。

ひきぎわが分からない上、どちらかというと好戦的なタイプでもある。

一度怒り始めたら、自分では落とし所がわからなくなってしまう。

関係が壊れてしまっても構わないのだ。

そもそも私を怒らせるような友達はいらない。そんな風に過ごしてきた。

 

「許す」ことと同時に「交渉する」こともよくわからない。

自分では、ただ主張しているだけなのに「怒っている」と思われることが多いのだ。

性格キツイよね、ってずいぶん言われてきたことだろう。

 

 

こんな私なのに「許してくれそう」と思われるのは本当に不思議だ。

しかし、「許してくれそう」と思われる一つの要因がある。

それは私が普段関わる相手を「否定しない(よい意味で捉える)」ように振舞っているところだろう。

 

人は誰でも個性があって、信念があって生きているはず。

それを否定したり、馬鹿にしたりするのはおかしいだろう、と。

(もちろん私にも個性があって、信念があるので、それを否定しないでくださいということの裏返しだ)

 

それと、何かが楽しいかどうか、は自分にかかっていると思うので

いつも真剣に楽しもうと心がけている。

そういう態度が、誤解を招いているんだろうな、とは思う。

 

振舞っている、というのがポイントで、

私は放っておくと人を馬鹿にする癖がある。

それは、人を「許せ」ないことにつながっている。

人を許せないと自分も辛い。だから、許したい。

 

だけど、本当の「許し」とは何かが私はわかっていないんだろう。

だから私の振る舞いが「許してくれる」と誤解されるのだろう。

 

 

封筒に手紙がぴっちぴち

毎月、私の手元には請求書の入った封筒が届きます。

その中の一通なんですけどね、掲題の「封筒に手紙がぴっちぴち」に入った状態なんです。

本当にどうやって入れたんだろう?

手紙を包むようにして、折り紙のように封筒を糊付けしたの?

と不思議になるくらい隙間なく、

ぴっちり手紙(請求書)が折られて入ってます。

 

明かりに透かしてみても、

縦にしようが横にようが、隙間は一切ありません。

 

私は開封にははさみを使うのですが、この封筒にはさみを入れたら、

中身の手紙を切ってしまうことになります・・・汗

 

かといって、封がされた蓋の部分からはがせるかというと

これまたぴーっちり糊付けされているうえ、

糊の威力が強くて、蓋の紙をひっぱると薄くそげちゃうのですよ。。

 

 

送り主は、これでもか!というくらいきっちり入れることに

満足しているのかもしれませんが

受けとる側の不便をちょっと考えてくれたらいいのに・・・と毎月この時期思うのです。

DQN排除は世の流れ?

例によってフェイスブックでもやっと事件が起きた。

イラ友(イラッとさせる友達)が、長谷川豊さんの「テレビがつまらなくなった理由」というエントリにいいね!していたのだ。

 

長谷川さんは、逗子の海水浴場での飲酒等禁止について、SMAPの草なぎ君の飲酒事件後のバッシングを引き合いに出して、今の日本は「のりしろ」がないよ、余裕が足りないよ、つまんないよ、とおっしゃっていた。

詳しくは

http://blogos.com/article/91354/

 

 

私は、逆に「逗子、やるなあ」と思っていたので長谷川さんとは反対の意見。

なんで反海水浴場での飲酒等禁止に賛成かというと、

子供を持つ親の視点になって考えていたからだ。(実際はいませんけど)

 

そもそも今の私は海に行かないけど(でも子供がいたら行くと思う)

逗子の海の家がクラブみたいな感じになってたんじゃないかと想像した。

重低音が響いてたりしてさ。

でもって、タトゥーを見せびらかしてる人が浜にいたりするわけでしょ?

酔って騒ぐ人がいたわけでしょ?

 

実際、市に苦情は寄せられていたそうだ。

 

私が親だったら、やだな。

そんなビーチで子供遊ばせたくない。

 

おしゃれな海の家で、開放的にはじけたい・・・のは一部若者な気がするのよ。

暴論だけどDQN層も多かったんじゃないかな?

 

でもさ、逗子市は恐らくターゲットをファミリーにしたんだと思うのよ。

もしくは、逗子ってお金持ちがたくさん住んでて、彼らは納税もしてくれる(想像)。

その人たちの方を向いたってことなんじゃないかと思う。

 

 

長谷川さんはいろいろ禁止した逗子市に「のりしろ」がないなぁ~と嘆かれていた。

そう、「のりしろ」は大事だよ。

だけどさ逗子の問題は「のりしろ」ではなくないかい?

規制にばっかり目がいってるみたいだけど、「日本一安全でマナーのいい浜辺にする」というブランディングの一環だよね。

お酒やタトゥ以外で今よりビーチを面白くすることはできないのか?(できるよね)って私は思うよ。

 

 テレビもしかり。エロとかコンテンツもいろいろ規制が厳しくなって

面白いことができなくなったという前に、そんなのなくても面白くすることってできると思うのだよ。

(一時期、本当にテレビがつまらないと思っていた時期もあったけど、その頃よりはずっと面白さが復活していると私は感じている)

※テレビがDQN向けであるからこそ、そういうのがないと見てもらえなくて困るのだろうけど。

 

そっか。書いててわかったけど、今の世の中はDQN排除に向かってるんだ。

それを気に食わない既得権益者がいるわけだ。

 

 

もとい。イラ友よ。

あなた自分の子供、そんな浜(市に規制される前の)にホントに連れて行きたいと思ってる?

 

イラ友は最近入籍ばかりだけど、以前から子供には○○してあげたいな~とかのたまっていた。

その○○してあげたいな~という意識高いママ像と、

今回の「のりしろ」足りないよ!記事へのいいね!って全然一致しないだろ、と思う。

これがさ、普段からDQN全開な人ならいいのよ。だって主張が一環してるもの。

 

お役所の無粋な規制に反対するアテクシ、センスいいでしょ?って感じがダダ漏れであーあな出来事でした。

 

朝型か夜型か

一日は万人に平等に24時間である。

だから朝型であろうと夜型であろうと

同じような仕事をしている二人の間に大した差はないはずだ。

 

金曜の夜をもったいなく感じる人と、土曜の朝を貴重なものに感じる人。

一体どちらの人が多いのだろう。

 

私は完全なる朝型で、中学生の頃から夜更かしが苦手だ。

当時は、深夜のラジオ(ANN)を聞くのがサブカル女子の定番だったのだが

一、二回聞いただけで習慣にはできなかった。

テスト前によくある一夜漬けも、

徹夜するより、早朝に起きて勉強する方が性にあっていた。

今は、学生の頃よりも朝型に磨きがかかり、自らの意思で早起きがしたい。

 

ただ早く起きたいわけではなく、しっかり睡眠時間を確保したいので

夜は10時~11時ごろには布団に入るような生活をしている。

 

朝ごはんも急がず食べたいし、(あわてて飲み込むような食事は嫌)

駅まで自分のペースで歩きたいし、(速足になるのも走るのも嫌)

快速列車で何度も乗換をするぐらいなら、ローカル列車で1本で行きたい。(ここで乗り換えて、とか考えたくない)

そう思って逆算すると5時半起きでも少し遅いくらいになる。

 

朝型の視点というのは、常に少し先にあるのだと思う。

今のことよりも、明日(次)の快適を考えている。

 

反対に、夜型の視点というのは、今に重きがある。

今日(今)をエンジョイしたいという気持ちの強い人ほど、夜型なのではないだろうか。

きっと食事もゆっくり後ろ重心で摂るのだろうし、

駅まで走って間に合うなら、家にいる間を少しでも長くして、あれもこれもそれも一度にやってしまおう!という効率の良さだったり、臨機応変さを持ち合わせていたりするのだろう。

 

肝心な時にきびきびと処理できるのは、若いうちだけだ。

だから若いうちは夜更かしが平気なんだろう。

お年寄りに早起きが多いのは、眠りが浅いだけでなく、処理速度自体が遅くなって

時間の余裕が必要になっているからなのかもしれない。

 

不幸<自由

 

センスのいい婚約指輪がほしい。

 

そういう意味では、求婚を受けた既婚者の事が羨ましい。

少なくともその時は誰かに必要とされ、多額の金品を受け取ることができた人。

 

私の中で、もうひとりの私が冷ややかに見つめている。

私の結婚願望は”その程度”なのだ。

実のところは、結婚の実態なんてほしいと思ってはいないのだ。

キラキラ光る大きな石のついた指輪がほしいだけ。

誰かに必要とされた証を身につけたいだけ。

世間の多くの人と同じことができたと思いたいだけ。

 

 

自立を徹底的に仕込まれ、経済的強迫を受けてきた私にとって、

自分が等価交換できないものは負担でしかない。

返せないほどの何かをもらってしまったら、

以降恩を着せられて生きる気がして、自分の自由を取り上げられる恐怖すら感じる。

 

 

(婚約指輪だけが、唯一の例外なのだ。

なぜか、「もらい逃げ」していいもののように思えるのだ。)

 

親に甘えて家や車を買ってもらったりする友人もいる。

夫に甘えて悠々自適な専業主婦生活を送る人もいるらしい。

 

誰にも支配されず、自分の意のままに生きることを望むなら

誰からの経済的支援も受けるべきではない。

家も車も、自力で買うことができればそれが一番いい。

 

堅いこと言ってないで、親とも旦那ともうまくやればいいんだよ。

そんな風に思えるのだとしたら、もしくは無自覚であっても、それはとても羨ましいことだ。

 

私は人よりも、「もらう」ことに対する拒否感がとても強いと思っている。

お返ししなきゃいけないものなら、最初からほしくないと思ってしまうのだ。

それであばら家に住むことになろうが、の垂れ死のうが、

自己責任として、自分の力不足として、納得できる。

 

だが、ひとたびそこに他者が現れてくると

私の中であっという間に支配と被支配の関係になってしまうような恐れが生じる。

 相手がお金持ちや成功した人であるほど、いつも私はその場から逃げ出してしまうのだ。

それが年上だった場合、柄にもなく脳内で年功序列が持ち出され

年長者に力づくで言うことを聞かされる恐怖がさらにプラスされる。

 

条件が逆なら、今度は私が、相手に恐怖を与えてもよいのではないかと思ってしまうところがある。(隠してはいるが、根底にこの気持ちがあると思う)

 

 私はきっと、必要以上に卑屈であり、必要以上に横暴だ。

私は「家族を支配・被支配の関係でしかとらえられない人間」なのだと思う。

もし、世の中の家庭がそうでないなら、誰か私に寄り添って正しい暮らし方をおしえてほしい。

 

 

若いころは、みんな自分と同じ感覚なんだと思っていた。

ぶりっ子は別としても、さばさばした子たちとは、同じ感覚を共有してると思っていた。

そして女性よりは男性と、同じ感覚を共有してると思っていたけど、

家庭に支配・被支配の恐怖を抱えているなんて私ぐらいのものなんだろう。