キライ=裏山

 気に食わない世間様や物事に、嫌いと思うのではなく、その感情を裏山(羨ましい)という言葉に変換すれば毒気が抜けるのではないかと逃げ道を作って書いてみる。

 気に食わないこと、人、いっぱいありすぎて、いや、身の回りに残った少ないもののほとんどが気に食わなくなってきて、自分が気難しく、偏屈になってこのままさらに孤立していくのかもしれないと思っている。

 今日の裏山は異性の惚気。同棲の惚気も腹立たしいが、異性の惚気はどうして私に憐れみや蔑みさえ混じった黒い感情を引き起こしてくれるのか。

 そもそも惚気とは、自慢の一種だと思う。幸せ自慢。今現在、幸せは人に見せるものじゃない、愛情は人前で示すものじゃないという価値観を持つ人はどれぐらいいるのだろう。そして、自慢。自慢って嫌われる行為で、たとえば学校で自慢なんてしてたらいじめられたりするんじゃないのだろうか。
 なのに、結婚しました、子供ができました、愛しています、の様な「いいことだったら発表していい」というメンタリティが最近世の中に浸透してきているように思えて、私はすごく不安定な気持ちになる。「いいことの起こった私を見て」「いいことをしている自分すごい」、よくそんな事言ってしまえるよな。

 異性ならなおさらだ。あんた騙されてるよ馬鹿だねぇという憐れみと、それを表に出す低俗さに対する蔑みがミックスされる。

 そう思ってしまう私は、悲観主義者なのかなと思う。いいことは長く続かないものだ。そう思っているから、いいことが終わった時、幸せだった自分を恥ずかしく思うのだ。あんなにはしゃいで馬鹿みたいだったな、と。愛しているけど、愛に振り回されない、クールな自分でいたい。斜に構えておいて何らかの気持ちの余裕は持っておきたい。その場の流れや瞬間のパッションで行動したくはない自分がいる。そういうのは未熟な証だから。

 だけど、この不安定な気持ちはきっと裏返せばあこがれなのだ。本当は私もみんなの前で、まるで私が馬鹿だと思う人たちみたいに、こんなことしたよ、ねえすごいでしょと言いたいのだと思う。

 馬鹿であること、恥ずかしく思われること、未熟であることっていうのは、私が思うほど馬鹿でもなく、恥ずかしくもなく、未熟でもないのかもしれない。